はじめまして。私は2015年7月に東京府中市から夫の実家のある恵那市岩村町に二人でUターンしてきたCHIEと申します。1954年生まれの牡羊座です。恵那にUターンすることは還暦をすぎの私たち夫婦にとってはあらたなチャレンジでもありました。
Contents
- 1 20015年7月東京から恵那にUターンし山里暮らしがはじまる
- 2 自然体でスローライフをはじめる
- 3 断捨離して広くなった家に友人を迎えてリトリート
- 4 心も身体も喜ぶものを積極的に取り入れる
- 5 スローライフの豊かさ人の暖かさを伝え都会と田舎をつなぐ架け橋に
- 6 地方の海辺の町から東京の大学へ そこで感じた格差社会
- 7 貧困差別などの光の当たらない人々に寄り添いたい・そんな中での結婚出産
- 8 子育てと仕事に忙しくも充実 情報発信やサポートに喜びを感じる
- 9 波乱万丈のなかで鍛えられる心と気功との出会い
- 10 自責の念から光の体験 そこから見えない心の世界に向かう
- 11 見えない心の世界の探求がはじまる
- 12 子供たちも独立し郊外の府中市に転居
- 13 リコネクションとの出会いと人生の大転換
- 14 人間万事塞翁が馬を実感する50代からの人生風景
- 15 ヒーリングの旅と恵那への転居
- 16 恵那に戻ろう。ここで人生の最終章を楽しもう
- 17 老いることに抵抗せず人生の達人を目指す
20015年7月東京から恵那にUターンし山里暮らしがはじまる
転居して気づいたことは。。
わああ。わたし都会の暮らしとはまったく違った喜びを感じているわ~ということでした。
夫の実家は恵那岩村の山里で夜は真っ暗。星が綺麗。虫の声やカエルの鳴き声、鳥の鳴き声がしてなんと穏やかなこと。
6月には蛍も舞う里。
自然体でスローライフをはじめる
家の裏の休耕田を利用して野菜を見よう見まねで作り始めたら、素人でも収穫できました。
自分で作ったものを食す。家の周りの廃材を利用して薪ストーブの燃料にしたり労力は要るけれどそれ以上の喜びも湧いてきます。近所の方々に暖かく迎えられて野菜や果物を差し入れしてもらう。地域の行事にも積極的に参加。そこで色々な知恵や情報を受け取りました。お返しに村の人々や高齢者施設でクリスタルボウル演奏を提供し暖かいつながりができました。
断捨離して広くなった家に友人を迎えてリトリート
夫の実家は築45年ぐらいの普通の民家ですが、親のものを断捨離したらすっきり。部屋数は一階が5部屋と台所、二階は4部屋。二人で使うには広すぎる。そこで東京時代の友人たちを呼んで、滞在してもらい恵那の自然や岩村の名所旧跡を案内するようになりました。今は恵那で心も身体もリフレッシュしてほしい。恵那リトリートと名づけて都会の友人知人を招いています。
心も身体も喜ぶものを積極的に取り入れる
野菜だけでなく、味噌づくり、酵素ジュース、玄米酵母液づくり、野草茶ワークショップなどに積極的に参加することで次第に地元の友人が増えていきました。家の庭の梅や柿。これらで梅干しや梅酒、干し柿などを作り、自然の恵みを色々な形で工夫して生活に取り入れることで心も身体もますます癒されて行きました。
スローライフの豊かさ人の暖かさを伝え都会と田舎をつなぐ架け橋に
さらに岩村には古い城下町があり情緒豊かな歴史の町。古いものをとても大切にしています。岩村で出会った友人に普段着の着物の着方を学び、義母の遺した着物を活用しはじめました。次第に「やっかい」「管理が面倒」と思っていた周囲の雑草や、古い着物が「宝物」に見え始めました。
こんな生活が待っているとは夢にも思いませんでした。そこで私は恵那の自然や歴史ある城下町をみんなに紹介したり、この地に移住したい方には情報を提供したり、田舎暮らしを楽しむコツをナビゲートしたり、また山里の暮らしを体験したい方には、お宿を提供しながら都会と田舎をつなぎたい。そんな思いが日に日に増していきました。
あまりにも、便利で何でも手に入る都会暮らしからゆったり暮らすスローライフを自分自身も試みながら紹介したい。さらに私は旅が好きなので、旅の情報もお伝えしたい。そんな気持ちでこのブログをはじめました。
地方の海辺の町から東京の大学へ そこで感じた格差社会
私は東北のとある海辺の町で生まれました。実家は家電を扱う商売。高度経済成長の中で店は繁盛し、そこそこ不自由なく育ち小学校中学生活を過ごしました。高校は進学校で大学進学率が高く、私も東京の私大に入学し女子寮生活を体験しました。しかし大学では地方と都会の格差を目の当たりにしました。アウェイな感覚。その頃大学では学生運動の残り火が学内や社会の不公正や格差をとりあげていました。夫も地方出身で居場所を求めていたようです。そこで出会いました。差別や貧困、戦争。住民無視の政治。こうしたことに若い怒りをぶつけていきました。
貧困差別などの光の当たらない人々に寄り添いたい・そんな中での結婚出産
大学では英文科でしたが、単位をとって良い就職先を求めるという風潮に疑問を感じ、光の当たらないところで生きる人々を支援したいと思うようになっていきました。夫も同じように思い政治活動に身を投じていました。結婚もその延長にありました。でも決して不満ではなくむしろ正義感、使命感に燃えていました。
新居は千葉県でした。空港反対運動の農家の庭先を借りて夫が手作りでプレハブを建てました。長女を産み育て周りの農家に見守られながら自主独立の気概で暮らしていきました。さらに縁あって東京下町に転居。アパートから公営住宅へ。長男も生まれ、保育園にあずけながら共稼ぎの日々でした。
子育てと仕事に忙しくも充実 情報発信やサポートに喜びを感じる
忙しい日々の中、ていねいに暮らしを作ることとは無縁な生活。決して裕福ではないけれど二人の子供たちは本当に素直にすくすく育ってくれました。これは何物にも代えがたい財産です。東京での仕事は人事や総務畑でした。転職した先ではイベントを企画したり、広報誌を作ったり地域活動を通して人々とのふれあいを経験することができました。
振り返ってみれば私は、情報を発信することが喜びなんだと思います。書いて伝えること。人生の先輩の歩みを聞き取りしてまとめたり、どんな逆境でも逞しく生きる人々の魂の輝きにワクワクしました。
波乱万丈のなかで鍛えられる心と気功との出会い
40代で夫の会社が倒産。それでもなんとか助けてくれる人がいたり乗り切ってきました。どんなことが人生で起きてもなんとかなる。こうした体験で身についたのかもしれません。当時、肩の痛みがなかなか取れず、近所にできた「気功治療院」で快癒しました。これを切っ掛けに気功教室に通いはじめました。「気」ってあるんだ! 目に見えない心の世界とのはじめての出会いでした。
自責の念から光の体験 そこから見えない心の世界に向かう
現実社会の差別や格差問題。仕事を通して当事者の人々に寄り添いながらも解決に向かう歩みはするものの。私の中に何度も現れる自責の念。自分の心の問題に直面していました。あるとき気功練習中に「自責の念」がふつふつ湧いてきました。奈落の底に落ちるような感じでした。突然優しく慈愛に満ちた光に包まれたようになり、とめどなく涙が溢れました。何かが私を包んで癒している。その後も立て続けに白昼夢を見続けました。不思議な感覚でした。目が覚めると消えてしまうのですが深い叡智が白昼夢の間に齎されたことだけは覚えていました。
見えない心の世界の探求がはじまる
自分の身に起きたことは一体なんだろう。当時は相談する人もおらずインターネットというものもない。書店にでかけて数少ない精神世界についての書籍を買い求めては読んでいました。次第に肉体とは別に心の働きがあることを学んでいきました。人生は不思議なものですね。自分がこの様な世界について学ぶことになろうとは。そしていつしか手に取った書籍のなかで、レバナ・シェル・ブドラ女史という私より年上の透視ヒーラーの主宰するスクールに通い心の訓練法を学びました。家族には内緒で13ケ月で無事に卒業しました。当時、義母の逝去、独居となった義理の父が精神不安定になり介護をかねて恵那に帰省することが多くなりました。正月にしか帰省しなかったので春夏秋の恵那の自然の素晴らしさに癒されました。なんて良いところなんだろう。その後20年近く勤めた仕事を退職。長い間仕事中心できた自分へのゆとりの時間ができました。
子供たちも独立し郊外の府中市に転居
府中市内には八年ほど暮らしました。親戚も知人もいない町でしたが、子供たちも結婚就職ととんとん拍子に進み独立。夫と二人感謝しきれない素晴らしいご縁に恵まれました。当時スクールで同期生だった友人の代役でヒーリングの仕事を請け負うようになりました。振り返ればいつも誰かの代役を受けることで、そのポジションに就くという形が多かったように思います。残り物に福とでも言いましょうか。府中でのご縁の大半は、私のセッションを受けて下さった方の口コミで広がりました。
天は見放さない。誰かがいつも助けてくれる。この確信は強くなりました。大國魂神社、府中の森公園。懐かしい場所になりました。
リコネクションとの出会いと人生の大転換
府中に転居して直にリコネクションというセッションを受けました。1993年にアメリカのカイロプラクティックのエリック・パール医師が最初に受け取った、地球上に新しく齎されたリコネクティブ周波数によるヒーリングとリコネクションというセッションでした。詳しくはこちら。
リコネクションを受けることで人生が本来の自分自身に向かって加速する。2008年2月、このキャッチフレーズに惹かれて直感で受けました。するとその直後に何と夫が失職。「リコネクションを受けたのにこうなるの?」と驚きましたが。。振り返ればそれが人生の大転換の合図だったのです。まずは、この事態を受け入れていきました。50歳過ぎての転職は厳しいものがあり、夫は就職をあきらめてウェブデザイン専門学校短期コースに通いました。そして卒業制作で私のホームページを作ってくれることになりました。
精神世界については懐疑的な夫は、制作のために関連書物を読むようになり、「聖なる予言」(ジェームズ・レッドフィールド)に感銘を受けてたそうです。口コミやチラシなどの宣伝だった私の仕事もホームページが出来ることで、ウェブ上でお客様があっと言う間に増えていきました。インターネット恐るべし。海外の人ともつながるのですね。。世界がまったく違って見えました。夫も私の仕事に協力するようになりました。
人間万事塞翁が馬を実感する50代からの人生風景
人間万事塞翁が馬という諺がありますが、その後の私たちの人生は災い転じて福となすという言葉に尽きるように思います。夫の失業で新しい想像もつかない人生の扉が開いていったのです。
2008年の冬に私はリコネクションを提供するためのエリック・パール氏のセミナーを受講しました。目から鱗でした。今までのヒーリングの概念が180度覆ったようでした。そして夫にリコネクションをしました。その後、数週間たってから、夫は「一体、自分はどこにリコネクトされたのか」と書籍リコネクションを読み始めました。すると毎晩のように「手がビリビリする」と言うのです。そのうちに夫は面白くなったようで見様見真似でヒーリングをしていました。 あるとき、私の弟が肝硬変で危篤になり意識不明の重体に落ちいりました。夫に見舞いに行ってもらうと、病室で自分の手がビリビリし始めたそうです。「なーんちゃって」ヒーリングを弟にすると、翌朝、意識を回復して義理の妹から感嘆の電話がありました。夫は驚きながらも喜びました。それからほどなくして、夫はエリック・パール氏が日本で開催するセミナーに申し込んだようです。私は驚きました。あれほど精神世界のことに懐疑的な人が率先してヒーリングを学びにいくなんて。。
ヒーリングの旅と恵那への転居
それからです。夫と一緒に、要請された町にヒーリングとリコネクションの旅に出ることになりました。広島県三次市。静岡県三島市。石川県。京都。札幌などなど。いつしか私と夫は同じ方向を向いて一緒に車でヒーリングの旅に出るようになりました。夫の失職は、このためだったんですね。それからも夫はいつも私の先導役になりました。2009年12月にはペルーマチュピチュのスピリチュアルツアーに夫と参加しました。肩を押したのは夫です。
そこで多くの出会いをいただき、その後の人生にも影響しました。夫と一緒にアメリカ・シャスタのスピリチュアルツアーにも出かけました。いつも夫と一緒に体験することになるのです。2011年東北巡礼の旅も夫と一緒に車で遠征しました。いつもそばに夫が居ました。
恵那に戻ろう。ここで人生の最終章を楽しもう
府中時代は、本当に多くの方々に助けてもらいました。多くの出会いをいただきました。それでもある朝。「恵那に戻ろう」という直感がやってきて夫に伝えました。これはもう強い強い直感でした。夫は私の提案に喜び、2015年夏二人でこの恵那の地に舞い戻った次第です。ここで人生の最終章を楽しもう。。
夫にも私にも、ここでの人との出会い、そして様々な体験はこれからこのブログに記されるでしょう。スローライフ。まさに私と夫がいきついたのはこの恵那の土地でした。。
老いることに抵抗せず人生の達人を目指す
老いることに抵抗せず、人生をたのしむ達人を目ざして、山里の人々の優しい懐の中で、新鮮な発見、年輪を重ねたからこそ見える風景、「すべて善し」となるような視点を提供して参ります。二人の子供たちは成人し、現在は夫と二人暮らし。2017年現在、夫64歳。私は63歳。家からほど近い高齢者施設に住む88歳の義父をときどき見舞う。長女は40歳、結婚し東京で夫と二人の子供(私にとっては孫)を育てる主婦。息子は34歳。名古屋でサラリーマン。忙しい日々を過ごしている独身。どうぞ宜しくお願いします。2018年1月
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